近所のお蕎麦屋での出来事だった。
その店では、セルフサービスで温泉卵が自由に食べられるという、少し珍しいサービスがあった。私は子どもを連れて軽く食事をしていたのだが、その光景を見て思わず目を疑った。
ひとりの子連れの母親が、テーブルに置かれた温泉卵を次々とナイロンバッグへ詰め込んでいたのである。しかも一つや二つではない。明らかに“持ち帰りの範囲”を超えた量だった。
周囲の客も気づいていたが、誰も声をかけられないまま時間だけが過ぎていく。
やがてその母親は、子どもに「ちょっとトイレ行ってくるから待ってて」と言い残し、その場を離れた。
その瞬間だった。
それまで静かに食事をしていたサラリーマン風の男性が、ゆっくりと席を立った。
私は何をするのかと見ていると、彼はそのナイロンバッグを一瞥し、ため息をひとつついた。
そして次の瞬間、彼は温泉卵を追加で詰めるのではなく、そっと元の容器へ戻し始めたのだ。
周囲が驚く中、彼は淡々とした声で小さく呟いた。
「さすがにこれは、やりすぎだろう」
その動作は荒々しいものではなかった。ただ静かに、しかし明確な意思を持った行動だった。
やがて母親が戻ってくる気配がすると、彼は何事もなかったかのように席へ戻った。
しかしテーブルの空気は、さっきまでとはまるで違っていた。
ナイロンバッグの中身は減り、周囲の視線も変わっていた。
母親は一瞬固まり、そして何も言わずに席へ座った。
店内には、箸の音だけが静かに響いていた。