去年、私は妻と離婚した。
理由は、彼女の不倫だった。
ある日、仕事帰りに偶然見てしまったのだ。
彼女が別の男と手を繋いで歩いているところを。
その時、私は何も言えなかった。
ただ彼女の左手首を見ていた。
そこには、
私が結婚3周年で贈った腕時計がなかった。
あの時計を渡した時、彼女は笑いながら言っていた。
「この先、一生これだけ着ける」
でも半年後には、
別の男の隣で笑っていた。
離婚はあっけなかった。
彼女は最初泣いて謝っていたが、
最後には、
「あなたとはもう未来が見えない」
と言った。
私は何も返さなかった。
家を出て、
仕事を変えて、
引っ越して、
彼女の物は全部捨てた。
もう二度と、
彼女を思い出すことはないと思っていた。
でも先日。
スーパーで偶然、
元義父に会った。
以前の彼は、
私を見るたびに
「もっと上を目指せ」
「男なら稼げ」
と説教する人だった。
でもその日、
彼は別人みたいに老け込んでいた。
白髪だらけで、
毛玉だらけの青い上着を着て、
何度も手を擦っていた。
「小周……」
久しぶりにそう呼ばれた。
私は返事をしなかった。
すると彼は、
震える声で言った。
「娘が……癌なんだ」
「もう、長くない」
私は持っていた醤油のボトルを落としかけた。
カートにぶつかり、
ガタンと揺れる。
でも倒れなかった。
周囲では、
特売のアナウンスが流れていた。
「卵、本日特価でーす」
でも私の耳には、
“もう長くない”
その言葉だけが何度も響いていた。
元義父は続けた。
「お前を傷つけたこと、ずっと後悔してる」
「最後に、一度だけ会いたいって……」
私は何も言わず、
その場を離れた。
でもレジで会計している時、
ふと気づいた。
カゴの中に、
季節外れの高いイチゴが入っていた。
彼女が昔、
大好きだったやつだった。
どうして無意識に手に取ったのか、
自分でも分からなかった。
その夜、
私は眠れなかった。
頭の中に浮かぶのは、
不倫した彼女じゃない。
笑うと目が細くなる顔。
夜中に即席麺を作りながら、
「卵ひとつ多め。旦那に栄養」
って笑っていた姿。
翌日、
私は会社に休みを取った。
花は買わなかった。
そんな資格はない気がした。
代わりに、
リンゴをひとつ洗って袋に入れた。
病室302号室。
ドアを開けた瞬間、
私は息を呑んだ。
彼女は、
別人みたいに痩せていた。
髪もほとんど抜け、
灰色のニット帽を被っていた。
私を見ると、
彼女の目が一瞬だけ明るくなった。
でもすぐに涙が溢れた。
「……来てくれたんだね」
声は、
蚊みたいに小さかった。
私はリンゴを置き、
椅子に座った。
「お義父さんから聞いた」
彼女は静かに頷いた。
そして、
何度も言葉を飲み込んだあと、
小さく呟いた。
「ごめんなさい」
私は壁のカレンダーを見ながら言った。
「もう過去のことだ」
彼女は苦笑いした。
「当時は……あの人の方が、もっと幸せにしてくれるって思ってた」
「でも今は分かる」
「あなたといた頃が、一番幸せだった」
私はリンゴを手の中で回しながら答えた。
「人は間違う」
「でも、その代償は二人で払うことになる」
彼女は泣きながら笑った。
「もし……やり直せたら……」
「やり直せない」
私は静かに遮った。
「だから今は、病気を治すことだけ考えろ」
結局、
私は10分ほどで病室を出た。
彼女は引き留めなかった。
ただ最後に、
「気をつけて帰ってね」
そう言った。
5日後。
元義父から電話が来た。
彼女が、
午前3時に亡くなったと。
最後まで、
私が贈った腕時計を握っていたらしい。
ベルトは擦り切れるほど使われていたという。
私は葬式には行かなかった。
恨んでいるわけじゃない。
ただ、
もう終わったことだから。
その夜。
私は一人で即席麺を作った。
そして気づけば、
卵を一つ多く入れていた。
食べながら、
涙がどんぶりの中に落ちた。
少し塩辛かった。
人は、
誰かを傷つける。
そして、
傷つけられる。
でも、
本当に苦しいのは、
“嫌いになりきれなかった相手”
なのかもしれない。