「席を譲るのが当たり前?」毎朝続いた善意が“義務”になった瞬間、私は断ることにした
2026/06/10

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毎朝同じ時間、同じ車両に乗る妊婦さんがいた。

最初に見かけた時は、何も考えず席を譲った。

「ありがとうございます」

そう言って嬉しそうに座る姿を見て、私も少し良いことをした気分になった。

その後も何度か同じことがあった。

たまたま目の前に立っていたら譲る。

それだけだった。

ところが、いつ頃からだろう。

相手は私の前に来ることが当たり前になった。

電車に乗ると真っ直ぐこちらへ来る。

私が座っていることを確認するように立つ。

それでも私は特に気にしていなかった。

だがある日、仕事で疲れていた私は席を譲らなかった。

朝早く起きて家を出て、混雑を避けるために乗る車両まで考え、ようやく確保した席だったからだ。

すると翌日だった。

私の前に立ったのは妊婦さんではなく、その旦那さんだった。

男性は少し困ったような顔で言った。

「妻が席を譲ってもらえて喜んでいたんです」

私は黙って聞いていた。

すると続けてこう言った。

「最近は譲ってもらえなくなって困っています。

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今後も譲っていただけませんか?」

一瞬、言葉を失った。

私はボランティアを申し込んだ覚えはない。

もちろん妊婦さんを責めたいわけでもない。

だが、席を譲るかどうかはあくまで善意だ。

最初から約束されている権利ではない。

私は笑顔で答えた。

「私も座るために毎朝努力していますので、他の方にお願いしてください」

すると旦那さんの表情が変わった。

「思いやりって大事だと思うんですけど」

その言葉に続くように、妊婦さんは目に涙を浮かべた。

まるで私が悪者になったような空気だった。

でも不思議と罪悪感はなかった。

なぜなら、私はこれまで何度も譲ってきたからだ。

その上で断ったのは初めてだった。

私が座るためにしている努力は見えない。

始発に近い駅を選ぶこと。

早く家を出ること。

混雑する車両を避けること。

それらは全て自分で考えて行動した結果だ。

なのに相手は、自分たちでは何も変えようとしない。

早く出るわけでもない。

別の車両を探すわけでもない。

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優先席へ移動するわけでもない。

ただ私の善意を前提にしている。

そこに違和感を覚えた。

善意は強制された瞬間に善意ではなくなる。

感謝されるからこそ成り立つものだ。

当然の権利として求められた瞬間、その意味は変わってしまう。

私は今でも体調の悪そうな人や、本当に必要としている人には席を譲る。

でもあの日以来、一つだけ学んだ。

他人の親切は「いつかまた受けられるかもしれないもの」であって、「明日も必ず受けられるもの」ではない。

善意を受け取る側に必要なのは期待ではなく感謝なのだと、改めて感じた出来事だった。

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