毎朝同じ時間、同じ車両に乗る妊婦さんがいた。
最初に見かけた時は、何も考えず席を譲った。
「ありがとうございます」
そう言って嬉しそうに座る姿を見て、私も少し良いことをした気分になった。
その後も何度か同じことがあった。
たまたま目の前に立っていたら譲る。
それだけだった。
ところが、いつ頃からだろう。
相手は私の前に来ることが当たり前になった。
電車に乗ると真っ直ぐこちらへ来る。
私が座っていることを確認するように立つ。
それでも私は特に気にしていなかった。
だがある日、仕事で疲れていた私は席を譲らなかった。
朝早く起きて家を出て、混雑を避けるために乗る車両まで考え、ようやく確保した席だったからだ。
すると翌日だった。
私の前に立ったのは妊婦さんではなく、その旦那さんだった。
男性は少し困ったような顔で言った。
「妻が席を譲ってもらえて喜んでいたんです」
私は黙って聞いていた。
すると続けてこう言った。
「最近は譲ってもらえなくなって困っています。
今後も譲っていただけませんか?」
一瞬、言葉を失った。
私はボランティアを申し込んだ覚えはない。
もちろん妊婦さんを責めたいわけでもない。
だが、席を譲るかどうかはあくまで善意だ。
最初から約束されている権利ではない。
私は笑顔で答えた。
「私も座るために毎朝努力していますので、他の方にお願いしてください」
すると旦那さんの表情が変わった。
「思いやりって大事だと思うんですけど」
その言葉に続くように、妊婦さんは目に涙を浮かべた。
まるで私が悪者になったような空気だった。
でも不思議と罪悪感はなかった。
なぜなら、私はこれまで何度も譲ってきたからだ。
その上で断ったのは初めてだった。
私が座るためにしている努力は見えない。
始発に近い駅を選ぶこと。
早く家を出ること。
混雑する車両を避けること。
それらは全て自分で考えて行動した結果だ。
なのに相手は、自分たちでは何も変えようとしない。
早く出るわけでもない。
別の車両を探すわけでもない。
優先席へ移動するわけでもない。
ただ私の善意を前提にしている。
そこに違和感を覚えた。
善意は強制された瞬間に善意ではなくなる。
感謝されるからこそ成り立つものだ。
当然の権利として求められた瞬間、その意味は変わってしまう。
私は今でも体調の悪そうな人や、本当に必要としている人には席を譲る。
でもあの日以来、一つだけ学んだ。
他人の親切は「いつかまた受けられるかもしれないもの」であって、「明日も必ず受けられるもの」ではない。
善意を受け取る側に必要なのは期待ではなく感謝なのだと、改めて感じた出来事だった。