大学病院の正面玄関をくぐった瞬間、消毒薬の匂いが胸を刺した。白い天井と電子掲示板を見上げながら、私は診察券を握り直す。
ここは、かつて私が医学部へ通い、そして中退した場所だった。
その時だった。背後から聞き覚えのある笑い声が聞こえる。
振り返ると、看護師姿の早川麻里が立っていた。学生時代の恋人だ。
私が実習で失敗し、将来に悩んでいた頃、彼女はそばにいた。だが別れ際、彼女は「中退なんて逃げだよ」と言い放った。
私は小さく頭を下げる。
「……久しぶり」
すると麻里は、私を上から下まで見た後、口元を歪めた。
「生きてたんだ。医学部を中退した“高卒の貧乏人”さん」
周囲の視線が一瞬だけ集まる。私は言い返しかけたが、言葉を飲み込んだ。
中退したのは事実だったからだ。
麻里はさらに続ける。
「今なにしてるの? まだ医者になりたいとか思ってるの?」
その瞬間、背後から落ち着いた女性の声が響いた。
「教授、診察のお時間です」
振り返ると、白衣姿の女医が立っていた。
彼女はタブレットを確認しながら、自然に私へ頭を下げる。
「カンファレンス資料も準備済みです。教授、こちらへ」
周囲の研修医たちも道を空けた。
麻里が目を見開く。
「……え? 教授?」
私は静かに息を吐いた。
「中退したのは事実だ」
麻里の表情が強張る。
私は続けた。
「でも、その後も終わりじゃなかった。臨床工学の現場で働きながら研究を続けたんだ」
夜は論文を書き、休日は統計を学び続けた。
「遠回りしたけど、別の形で医学に戻った」
女医が小さく頷く。彼女は私の共同研究者だった。
私は医師ではない。だが診断支援研究の責任者として、この大学病院に招かれている。
だから周囲は私を教授と呼ぶ。
麻里の唇が震える。
「そんな……だって、あなたは……」
私は静かに答えた。
「高卒で貧乏人、だったな」
麻里は何も言えなかった。
私は彼女を真っ直ぐ見た。
「だから必死だった。誰かを見返すためじゃない。自分を見捨てないために」
その場に沈黙が落ちる。
すると女医が時計を確認した。
「教授、時間です」
私は一度だけ麻里に頭を下げた。
「患者さんの前では、誰も傷つけない方がいい」
そう言い残し、私は女医と並んで廊下を歩き出した。
背中に視線を感じた。だが、もう振り返ることはなかった。
私は今、別の形で医療の世界に立っている。そして白い廊下の先には、救うべき命が待っていた。