パン屋の店内は、朝の焼き立てパンの香ばしい匂いで満たされていた。常連客が静かにトレーを持ち、穏やかな空気が流れる中、その事件は突然起きた。
「パンを食べたらお腹の調子がおかしくなった!慰謝料を払ってください!」
店のカウンターに現れたのは、いわゆる“キチママ”と呼ばれる中年女性だった。声は大きく、周囲の客も一斉に視線を向ける。
対応した店長は、動揺することなく落ち着いた声で尋ねた。
「恐れ入りますが、どのパンを購入されましたか?」
すると女性は腕を組み、苛立ったように即答した。
「あれよ!」
しかし、その言葉はあまりにも曖昧で、商品名もレシートの提示もなかった。
店長は一度だけ軽く頷き、すぐにバックヤードへ戻ると、レジ記録と防犯カメラの確認を始めた。数分後、店内の空気が一変する。
「確認いたしました」
静かに戻ってきた店長の表情は、先ほどまでとは違い、はっきりとした確信を帯びていた。
「まず、当店でその時間帯に該当する“ご購入履歴”はございません」
「は?」
女性の声が一段と強くなる。
だが店長は続けた。
「さらに、防犯カメラの記録によりますと、お客様はレジでのご購入はされておりません。その代わり、試食用のパンを複数回召し上がった後、そのまま退店されております」
その言葉に、周囲の空気が凍りついた。
映像には、棚の前で立ち止まり、試食用の小さなパンを何度も手に取り、ゆっくりと食べ続ける女性の姿が映っていた。しかも、アレルゲン表示の注意書きを確認することもなく、そのまま口にしていたのだ。
さらに店長は淡々と続けた。
「また、お客様が申されている“あれ”につきましては、販売商品ではなく試食用のサービス品でございます。購入品ではございませんので、当然ながら慰謝料の対象にはなりません」
女性の顔色が一気に変わる。
周囲の客からは小さなざわめきが起き、視線は次第に冷ややかなものへと変わっていった。
追い詰められた女性は何か言い返そうと口を開いたが、言葉は出てこない。
店長は静かに一礼した。
「今後はアレルギー表示をご確認の上、適切にご利用いただければ幸いです」
その一言で、場は完全に収束した。
女性は顔を赤くしながら何も言わず、足早に店を後にした。焼き立てパンの香りだけが、何事もなかったかのように店内へ戻っていった。